だめにんげんやめたいにっき

妻子持ちダメ人間がダメじゃなくなろうと努力する様をポップに描きます(予定)にっきと称していますが更新は不定期です

教員に向いていないと思う理由(兼備忘録)

教員というのは、学生(・生徒・児童)を教え導く、とても崇高な職業だと思う。

それはただ機械的に知識を身につけさせればいいという性質のものでは断じてなくて、正しく身につけた知識を正しい場面で正しく活用することのできる、真の教養人を育成することに他ならない。高等教育に携わる人間は特に、いかに多くの学生に、いかに適切に、この「教養力を培う」というタスクを達成させられるか、またそのことに心血を注げるかで、その価値が決まると言える。

 

……などというのは、ちょっと真面目に学生をやっていたことのある人なら誰でも知っている(そうでなくても、少し考えれば誰でも思い至る)ことではあるが、とりあえずこの前提を踏まえて。

 

僕はそこそこ名の知れた国立大学で博士号を取得していて、一般的に言えばそれなりに高い教養を有しているはずの人間だ。それにもかかわらず、高等教育にまるで向かないと思われる(少なくとも本人には思われてならない)理由は、おおむね以下の5点に集約される。

 

(1) 情報の取捨選択ができない

自分の専門(詳しくは書けないが、とある文系の学問分野)に関わる基礎教養科目を多く担当しているが、何を教えようとしても、重要項目とそうでもない項目の区別がつかない。というより、どれも重要だから授業で扱わないといけない、としか考えることができない。

たとえば一般向けの概説書などで10が扱われているとしたら、授業で取り上げる内容は3か4ぐらいにとどめるのがセオリーだが(そのぐらいでないと授業時間は必然的に足りなくなる)、何を基準に3ないし4を選び取ればいいのかわからない。その結果、明らかにスルーしていい1ぐらいしか省くことができず、9を暗記させるようなクソつまらない授業をすることになってしまう。あるいは、3を選ぶ行程を無理に断行した結果、選択を誤って支離滅裂なレジュメができあがってしまう。

 

(2) ケアレスミスが異常に多い

授業レジュメの誤字・脱字があまりにも多い。推敲の過程で文意が逆になるような凡ミスもかなり多い。

自分で用意した印刷物に、訂正を要する箇所が一つもなかった記憶など、ないに等しい。

 

(3) 授業の運営がうまくできない

授業準備の段階で当日に話す内容を1から10までかっちり固めようとすると、授業本番まで体力・気力が持たないので、準備はだいたい7-8割にとどめて臨む。すると準備しなかった2-3割に、必ずと言っていいほど重大な漏れが発覚する。それもほとんどは授業が始まって、該当する箇所の話にさしかかってから。

 

(4) 予定外のことに弱い(アドリブが効かない)

少なからず (3) にも起因して(つまりは自業自得だけど)、何を話せばいいのか、何をすればいいのかがわからなくなると、目に見えてテンパる。真冬の小寒い教室でも、滝のような汗が流れ出る。

 

(5) 授業準備時に集中力が持続しない

授業のためにネットで調べ物をしていたはずが、気づけば全然関係ないサイトを回って小一時間ぐらい経っていたりする。

本当に締め切りが差し迫っている場合はそうした無駄もいくぶん減るが、それなら普段からやればいいんじゃないか、それができれば色々ゆとりもできるだろうに、という自己嫌悪に苛まれる。

 

(2) や (4) あたりは、冒頭で述べた教師像の話とは少しずれる気もするけれど、教養を与え、与えられる行為は双方の信頼関係あってこそ成り立つものだと考えれば、やはりこういう説得力を損ねる要素ってダメなんだろうなあと思う。

 

そんなわけで、薄々自分がADHDとかそういう障害持ちなのではないかと(4年もこの仕事を続けてようやく)思うようになり、目下そういう診断を受けられる医院に通っている。

とりあえずは知能検査を受けて、結果を待っているところ。

どちらかというと定型発達でこの有り様だと単なるクズじゃんという気がするんだけど、どうなることやら。

 

なお業務内容を詳しく書くと身バレしそうで怖いので、何か全体として要領を得ない感じになってしまうのは平にご容赦。

最初の記事で言及した身体面の問題については、また後で書こうと思います。